仏性がある時(・∀・) ない時('A`)

道元禅師の『正法眼蔵』という、やたら難解な書物の一節に弁証法ちっくな文章があります。

【原文】


諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、
生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。


万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、
諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。


仏道、もとより豊倹より跳出せるゆゑに、
生滅あり、迷悟あり、生仏あり。


しかもかくのごとくなりといへども、
花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

自己流の解釈ですが、「諸法の仏法なる時節」というのはたとえて言うなら「551の豚まんがある時」みたいなものだと思います。おのれの内なる仏が551の豚まんです。「自信」と言ってもいいでしょう。それがある時、世界はバラ色です。全ての存在がありのままに仏です。この世には神も仏もある。生にも死にも意味があり、どんな人生にも価値がある。そう思えるリッチな気分の時です。


これに対して、「万法ともにわれにあらざる時節」というのは「551の豚まんがない時」です。己の内なる仏がない時、世界は灰色になります。自分が世界からのけ者にされている感じがします。神も仏もない。生きていても死んでしまっても変わらない。人生に価値などない。そう思ってしまうプアな気分の時です。


ところが、真実の道というのはリッチな気分とかプアな気分とかを超越したものです。内なる仏が有るとか無いとかを超えたところにほんとうの生があり、死があり、人生の意味があり、そしてほんとうの仏があります。自信が無いからといって捨てられるようなものなら所詮ほんものではありません。


まあ、それはそうなんですが、それでもなお、551の豚まんがあったりなかったりで一喜一憂するのが人間なんですね。

まとめ

(テーゼ)
自信が有るとき:
努力すれば必ず夢は叶う。だから努力する。


(アンチテーゼ)
自信が無いとき:
努力してもどうせ夢は叶わない。だから努力しない。


(アウフヘーベン)
どうせ叶わないかもしれないが、
だからといって夢は捨てられない。だから努力する。