そこらの虫も補集合

ふと高校時代の数学の先生の言葉を思い出した。
龍樹菩薩の言ってることがなんとなく分かったような気がした。


「x > 0」の否定は? と聞かれると「x <= 0」と答えるだろう。


でもそれは「x ∈ R」ならばの話だ。
もし「x ∈ C」であったなら、「x > 0」という命題そのものが無意味だ。


「x > 0」と言った時点で「x ∈ R」という「偏見」が生まれ、2つの集合が想起される。
A = { x ∈ R | x > 0 }
B = ~A = { x ∈ R | x <= 0 }


しかし、x = i だったなら、x は A,B いずれにも属さない。
『中論』において龍樹菩薩の言わんとする所はそういうことではないかな?


ある命題が暗黙に前提としている全体集合を疑え。
Rを全体集合と考えなければ、そこらの虫も補集合。
ひょっとして x = カドナシミツカドコオロギ かもしれない。


悟りとは俗を捨てて非俗を取ることではなく、
俗と言ったときに生じる偏見、「俗か、さもなくば非俗か」という偏見を捨てることにある。
それが釈尊の中道であり、龍樹菩薩の中論はその論理的表現ではないか。


そしておそらくは「趙州無字」などの禅問答はその中国的表現ではないか。