「萌え」と「ΕΡΩΣ」と「ΑΓΑΠΗ」

「萌え」の定義とはいったいなんだろうか? 多くの論者が「萌え」について論じているが、その定義は一定していない。三省堂「デイリー 新語辞典」(goo辞書)によると

マンガ・アニメ・ゲームの少女キャラなどに,疑似恋愛的な好意を抱く様子。特に「おたく好み」の要素(猫耳・巫女などの外見,ドジ・強気などの性格,幼馴染み・妹などの状況)への好意や,それを有するキャラクターへの好意をさす。

とある。これがまあまあ平均的な定義と思う。ここで気になるのは「疑似恋愛」という部分。そもそも「愛」とは何か?



ギリシャ語で「愛」と訳される語は主に2つ。「ΕΡΩΣ(エロス)」と「ΑΓΑΠΗ(アガペー)」である。「ΕΡΩΣ」とは自分を満たしてくれるものを求める愛であり、「ΑΓΑΠΗ」とは他者に惜しみなく与え満たす愛である。両者は「求める」と「与える」というちょうど対照的な方向の愛である。

「萌え」は明らかに「ΑΓΑΠΗ」ではない。では「ΕΡΩΣ」か?
ギリシャの哲学者プラトン(ΠΛΑΤΩΝ)は著書『ΣΥΜΠΟΣΙΟΝ(饗宴)』で「ΕΡΩΣ」について論じている。『ΣΥΜΠΟΣΙΟΝ』によると、人は完全性を喪失した存在であり、自分に欠けるものを満たしてくれるものを渇望するという。これが「ΕΡΩΣ」であり、「ΕΡΩΣ」はまた強い情熱で、自己を完全性へ向けて上昇させていこうとするエネルギーだという。

「萌え」の根底にあるのも、喪失感と孤独感であり、自分を満たしてくれるものを渇望する思いだと思う。この点において「萌え」は「ΕΡΩΣ」と共通する。しかし「萌え」には「ΕΡΩΣ」のような能動的なエネルギーがない。「ΕΡΩΣ」も「萌え」も自己充足を求めるが、「ΕΡΩΣ」が自力本願の能動的求愛であるのに対し、「萌え」は他力本願の受動的求愛だと思う。

「萌え」は「ΑΓΑΠΗ」を求めている。愛するより愛されたい。しかし現実世界において、「萌える男」が「ΑΓΑΠΗ」を得ることは困難である。能動的に求愛しない者を無条件に愛してくれる女性などそうそういないだろう。よって「萌え」は仮想世界に向かう。キリスト教徒が神に「ΑΓΑΠΗ」を求めるように、「萌える男」は2次元のキャラに「ΑΓΑΠΗ」を求める。その意味で「萌え」は恋愛より宗教に似ている。そして、宗教と同じように往々にして中毒性や依存性がある。そもそもそこに本当に「ΑΓΑΠΗ」があるのか?

ΘΕΛΩ ΤΗΝ ΑΓΑΠΗ!  (アガペーが欲しい!)