仏教とヒンドゥー教の哲学上の相違についてまとめ

目の前にある何か(人でも物でもなんでもいい)について、それがどういうものであるか列挙してみよう。例えば「御坂美琴」は「ツンデレ」であり「女子中学生」であり「科学サイド」であり「レベル5」であり「エレクトロマスター」であり「常盤台のエース」であり「短髪」であり… この場合、「ツンデレ」や「女子中学生」といった属性をインド哲学ではダルマ(dharma,法)と呼び、それらのダルマを有する「御坂美琴」という個体をダルミン(dharmin,有法)と呼ぶ。

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では、「御坂美琴」から「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といった属性をすべて剥ぎ取って素っ裸にしたら(*´Д`)ハァハァ 、そこに何が残るだろうか?
御坂美琴」の存在の核たる何かが残る。無色透明な「たましい」のような何かが有る、と考えるのがヒンドゥー教である。ヒンドゥー教ではそれをアートマン(ātman,真我)と呼ぶ。アートマンはなにものでもない。「〜である」という説明はすべてダルマであって、ダルマをまとう核たるアートマンではありえない。なにものでもなく、なにものにもなりうるのがアートマンである。GHOST IN THE SHELL でいう「ゴースト」である。そして、アートマンはなにものであるかを超えて不滅であり、宇宙の根本原理であるブラフマン(brahman,梵)と一体であると説く。これを梵我一如(ayam ātmā brahma)という。自分の内にある自分の本体は世界そのものの本体に通じていると。まあ、今風に言えば「セカイ系」な思想である。
いっぽう、何も残らないと説くのが仏教である。「御坂美琴」とは「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といった無数の属性の集合体にすぎず、それらを離れたところに「御坂美琴」の本体など無い。これを諸法無我(sarva dharma anātman)という。諸法無我三法印(trilakṣaṇa)のひとつであり、仏教の基本中の基本である。たとえばブドウ糖C6H12O6が炭素と水素と酸素の化合物であって、ブドウ糖という不滅の実体など無いように、「御坂美琴」も「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といったダルマの化合物であって、「御坂美琴」という不滅の実体など無い。有ると考えるのは妄想にすぎない。ヒンドゥー教の悟りがアートマンの実在を悟る「自分さがし」であるとするなら、仏教の悟りはアートマンの不在を悟る「自分なくし」である。
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そのため、仏教はヒンドゥー教正統派からはしばしば虚無主義(ナースティカ,nāstika)呼ばわりされてきた。ブラフマンアートマンの不滅を説くヴェーダ(veda)の教えを否定する異端のニヒリストめ、と。しかし、仏教はけっしてニヒリズムではない。そもそも「あるある!」とか「ないない!」とかいう極論をしりぞけるのが仏教のスタンス、中道(madhyamā-pratipad)である。永遠不滅の「御坂美琴」が実在するというのも極論。「御坂美琴」なんてどこにも存在しないというのも極論。さまざまな偶然と必然からダルマが寄り集まって、「御坂美琴」は一時的な存在として、しかしたしかに存在している。ブドウ糖が炭素と水素と酸素の化合物であって、燃焼したら水と二酸化炭素になるからといって、いまブドウ糖が存在しないということにはならない。この世の全ては夢まぼろしのように儚いものかもしれないが、われわれにとってその儚い夢まぼろしこそ全てである。
この一見すると否定にみえるけどじつは肯定しているツンデレ論理こそが仏教の真髄だと思う。諸法無我とは「すべての存在に実体は無い」というよりは、
「か、かんちがいしないでよねっ。すべての存在に実体なんて無いんだからっ!」
というニュアンスである。
プラトンVSアリストテレス

ところで、このダルマ/ダルミンの議論を見て、西洋哲学かじった人なら気づくと思うけど、古代ギリシアプラトンアリストテレスから中世の実念論VS唯名論に続く議論とそっくりである。まったくインド人とヨーロッパ人は親戚。同じ穴のムジナというか、同じユーラシアのインド・ヨーロッパ語族である。しょうじき、日本人の自分にはこんな議論はまったくどうでもいいと思う。(^^;)