仮定法過去完了の憂鬱

10/22の日記では、『春の雪』の清顕のことをさんざんバカにしたが、自らを省みるとぜんぜん人のことが言へないなあと思った。有為の人材たることを望みながら怏々として無為の日々を送り、すぐ近くにゐたあのひとに10年も声をかけられなかった愚か者だ。


僕の心を占める憂鬱の根底には、ある種の喪失感がある。
それは失はれた過去への喪失感ではない
暖かい過去の思い出への郷愁ではなく、
望んで得られなかった安らぎへの喪失感。
そもそも存在しなかったものへの喪失感。
失ったのではない。もともと得られなかったのだ。
過去にあり得たかもしれない可能性への喪失感
仮定法過去完了の憂鬱
「あのときああしてゐれば、ああだったのに。」
ひどく後ろ向きで、不毛な思ひが心を堂々巡りする。


いつも求めてゐたものは、安らかな日常。
いつまでも続くかのやうなお祭りの日々。
やがて懐かしい思ひ出となって心に残るはずの安息の日々。
機械研でできたはずのこと。
何もせずに可能性を失った京都での5年間。
もう全ては遠い過去のこととなり、
仮定法過去完了の憂鬱が僕の心をさいなむ。


まったく困った心の持ち主だ。分かってゐても憂鬱は止まらない。


...ああ、なんか久しぶりに文弱な文章を書いてしまった。