春の雪 Alaya-Vijnana

ここ一週間ほど、「春の雪」に関して語ってきたが、最後にこの小説の奥のテーマである唯識(ゆいしき)について語る。
今日のタイトルの横文字は正しくは Ālaya-Vijñāna (アーラヤ・ヴィジュニャーナ)。サンスクリット語で、阿頼耶識(あらやしき)の原語。ちなみに記号つきのアルファベットは数値文字参照で書いたが、文字コードを探すのがめんどくさい上にソースが読みにくいので以下では記号なしのアルファベットで書く。ああ、はてなUTF-8になればよいのに。
「春の雪」では月修寺門跡という尼僧によって唯識哲学が語られる。月修寺は奈良の法相宗の尼寺という設定だ。法相宗南都六宗のひとつに数えられる、奈良時代に伝わった仏教の一派である。難解な哲学的な学問が中心で、鎌倉新仏教みたいな民衆の救済なんかやらないので、現代では超マイナーな宗派となってしまった。
法相宗は、奈良時代に中国(唐)から伝わったが、中国で法相宗を開いたのはかの玄奘三蔵法師の弟子の慈恩大師だ。玄奘は唐の太宗の時代にインドに渡り、膨大な仏典を中国に持ち帰ったが、中でも彼が最も重んじたのが、唯識学派(Vijnana-vadin)の哲学であり、弟子の慈恩大師が唯識思想に基づいて中国法相宗を開いた。
唯識学派(Vijnana-vadin)は、3-4世紀ごろの伝説的人物 弥勒 (みろく) (Maitreya) が開祖とされるが、4-5世紀に無着 (むじゃく) (Asanga)・世親 (せしん) (Vasubandhu) の兄弟によって体系化された。主な経典は世親の「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」(Trimsika Vijnaptimatratasiddhih)、無着の「摂大乗論(しょうだいじょうろん)」(Mahayana-samgraha)、玄奘が編集した「成唯識論(じょうゆいしきろん)」などがある。
唯識(vijnapti-matrata)とは、自我の意識と意識される世界の全ては、自我意識の奥底に存在する普遍的無意識=阿頼耶識から生じるものであり、実在するのはだ阿頼耶のみであり、自我意識も世界も非実在であるという哲学だ。一見、唯心論や独我論っぽいが、そうではない。唯識論では個人の自我意識すら阿頼耶識から生じる幻影にすぎない。"Cogito ergo sum"(我おもう、ゆえに我あり)というのは妄想であると唯識論は主張する。ハイデッガー流に言うなら、存在者を存在者たらしめる第一原因たる存在そのものこそが阿頼耶識なのだ。(自分で言っててよく分からん。ハイデッガーさんごめんなさい)
我々の意識は、迷妄によって阿頼耶識から生じた一瞬の幻影に過ぎず、絶えず生起と消滅の輪廻を繰り返す。月修寺門跡というキャラクターは、迷妄を離れた悟りの境地から清顕らの運命を見つめているようだ。

門跡のおっしゃるそういう一見迂遠な議論が、現在の清顕や自分たちの運命を、あたかも池を照らす天心の月のように、いかに遠くから、またいかに緻密に、照らし出しているかに気づかなかった。

関係ないけど阿頼耶識といえばむかしこんなん↓あったなぁ。よく知らんけど。
http://www.jvcmusic.co.jp/m-serve/tv/aquarian-age/story/index.html