仏教の歴史はツンデレ。ツン(釈尊)からデレ(大乗)に至る契機として重要なのが般若経典と龍樹。密教はデレすぎ。ツンデレ萌えの僕的には龍樹ぐらいがいちばんストライク。
か、かんちがいしないでよねっ! 物質的現象に実体なんてないんだからっ!
釈尊と大乗の関係は、フロイトとユングの関係に似てるかも。 苦の直視を説く釈尊/フロイトと、癒し系の大乗/ユング
帰謬論証て、つまり背理法ね。自我が存在すると仮定しても、存在しないと仮定しても矛盾が生じる。だから自我は存在するのでもなく、存在しないのでもない。
自分という不滅の魂が「有る」という極論は挫折を知らないお子様。自分なんてどこにも「無い」という極論は中二病ニヒル。それらを止揚した見方が中観。
自我はハード的(常住論的)観点からは存在しないが、ソフト的観点からはメモリ上に名付けられたオブジェクトとして存在している。
仮諦というのは、自我が本物ではないという意味ではなく、ソフト的に実装されているということ。
つまり、仮諦はネガティブな意味でなく、自我は可変であるというポジティブな意味が出てくる。
自性が有るというのは、データを焼かれたROMみたいなもの。ROMで計算はできない。RAMは自性が空(0にも1にも固定されてない)だから、計算できる。
メモリ上に仮構されたオブジェクトとしての自我。
メモリこそが実在すると考えたら唯識? いやちょっと飛躍かな。
古典落語「三年酒」に思う。信長・秀吉・家康が宗教パワーを解体したのは良かったのか悪かったのか? とりわけ徳川幕府が宗教を既得権益化して幕藩体制に取り込んだのは日本仏教にとって致命的だったと思う。
応神天皇が八幡大菩薩とか呼ばれるならカール・マルクスが菩薩でもぜんぜんOKじゃないかと思う。南無マルクス大菩薩。