親鸞と道元

僕は歴史上の人物としての釈尊の思想を尊重しているので、日本の仏教にはどちらかというと否定的です。(若い頃は真言密教や天台本覚思想にハマってましたが。) 日本の仏教では辛うじて道元(≠現在の曹洞宗)は釈尊に近い部分を持っていると考えています。もちろん道元の思想にも、とうてい釈尊の思想に収まりきらない大乗的飛躍がありますが、法然親鸞らの浄土系の思想に比べればまだしも釈尊に近いと考えます。
マンガで要約するとこんなかんじ↓
http://licheng.sakura.ne.jp/hatena2/w.html


まあ、他力vs自力なんていう単純な話じゃないことは分かってるんですけど。
でも浄土真宗の『歎異抄』を読むと、どうもひっかかります。

自力作善(じりきさぜん)の人は、ひとえに他力をたのむ心 欠けたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力の心をひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる…

なんで自力で努力しちゃいけないの?
なんで自力では救われないの? あきらめてるの?
「あるべからざる」なんて断定は非合理的じゃない?


道元禅の『正法眼蔵随聞記』の方が合理的と思います。

ある人のいわく、「われ病者なり、非器なり、学道にたえず。…」と言うに、
示にいわく、「先聖 必ずしも金骨にあらず、古人あに皆 上器ならんや。…しかれども、卑下して道心をおこさず、非器なりと言って学道せざるなし。
今生(こんじょう)もし学道修行せずば、いづれの生にか器量の者となり、不病の者とならん。ただ身命をかえりみず発心修行する、学道の最要なり。」



ぜんぜん関係ないけど、『ハヤテのごとく!』って、
テキトーに描いてるように見えて、
読み返してみるとけっこう伏線はられてたりするなあ。
ヒナギクたん萌え〜。