「聞いたか、李徴(りちょう)!?」
馴染みの酒楼に駆け上がってきた袁イ參(えんさん)は開口一番そう言った。
「温厚篤実」を地で行くこの青年にしては珍しく興奮していた。
李徴は黄酒の杯を干すと、気のない声で答えた。
「わが朝廷の軍勢が西域の砂漠で異教徒に大敗を喫したっていう話か?」
「なんだ、やはり聞いていたか」
「長安は昨夜あたりからその話でもちきりだ。世情に疎い俺の耳すら入ってくるさ」
「その割には平気な顔をしてるな、おい」
「…葡萄の美酒、夜光の杯」
「あ?」
唐突な李徴の言葉に、袁イ參は聞き返した。
「葡萄の美酒、夜光の杯
飲まんと欲すれば、琵琶馬上に催す
酔いて沙場に臥すとも君笑うことなかれ
古来征戦、幾人か回(か)える」
「涼州詞・・・たしか西域遠征の兵士たちの悲哀を詠んだ詞だったな。」
「古来征戦、幾人か回(か)える・・・西域の砂漠なんかのために、何万もの武人が命を落とす。空しい話さ。」
「だが西域はわが朝廷の版図だ。」
「言葉も衣服も目の色も違う者たちの土地さ。」
「だからといって異教徒に奪われても良いと言うのか?」
「いや・・・」
李徴は窓の外の空に目をやった。
「そのうち西域どころの話ではなくなるかもな。」
「?」
「皇帝陛下は英明なお方だが、わが朝廷も斜陽のときを迎えつつあるのかもしれん。」
「お前、酔っているのか? 滅多なことを言うものではないぞ。」
「酔っているのはこの俺か? それとも百年の栄華を極めたわが朝廷か?」
「李徴・・・」
「お前も飲め」
差し出された杯を、袁イ參は黙って干した。
唐の天宝十年(西暦751年)、高仙芝将軍率いる唐帝国軍は西域のタラス河畔でイスラム帝国軍と開戦。両軍あわせて十万におよぶ大戦闘はわずか五日間でイスラム帝国軍の圧勝に終わった。
その五年後、世に言う安史の乱が勃発。これ以後、唐帝国は半分裂状態となり、以後百数十年にわたるたそがれの時代を迎えることになった。
あとがき
駄文失礼しました。ヤマなしイミなしオチなしのSSでした。『山月記』に登場する李徴と袁イ參の若き日のひとコマ。べつにBLではありませんよ。