日本語の横顔(第1回)

先日、中川電機さんと日本語の起源について議論になりました。良い機会なので、日本語に対する僕の考えを何回かにわたってここに書きたいと思います。

序.日本語と日本人

僕ら日本人はふだん日本語で語り、そして日本語でものを考えている。だから日本人のものの考え方というものは日本語という言語によって強く支配されている。英語とか中国語とか、何か外国語を学べばすぐに気づくことだが、僕らがふだん何気なく使っている日本語の表現は、必ずしもそのまま逐語的に外国語に翻訳できない。そして逆もまたしかり。日本語、英語、中国語などなど、全ての言語は、単に語彙と文法が異なるだけでなく、ものの考え方そのものにも違いがある。分かりきったことと思うがいちおう例を挙げておこう。



以下の日・英・中の文は同じ現象を述べている。

(日) あめがふる。 S=[あめ] V=[ふる]
 [あめ]という<主体>が[ふる]という<動作>をする。

(英) It rains. S=[it], V=[rain]
 [it]という正体不明の<主体>が[rain]という<動作>をおこす。

(中) 降雨。 S=無し,V=[降],O=[雨]
 [無]の<主体>が[雨]という<客体>にたいして[降]という<動作>をする。

日本語では「雨が降る」であるが、中国語の文は漢文訓読流に読むなら「雨を降らす」。誰が降らすのかは人知を超えているためか、示されない。英語では、この人知を越えた主体を仮に「it」で示す。そして英語では雨をモノ(名詞)と見ずにデキゴト(動詞)とみる。
このように同じ現象を述べているにも関わらず、まったく考え方が異なり、互いに逐語訳できない。無理に逐語訳して通じないことはないかもしれないが、すごく不自然な表現となる。

上記はごく簡単な例だが、このように人間はほとんど気づかぬうちに、自分の使っている言語によってものの考え方を支配されている。だとすれば、「僕ら日本人とは何者か?」という問いは「日本語とはどういう言語か?」という問いに結びついている。極論すれば、日本語という言語こそ日本人のアイデンティティといえるかもしれない。考えること、語ること、それこそが人の人たるゆえんなのだから。
このエッセイでは、日本語という言語の横顔(プロファイル)を自分なりに素描してみたいと思う。それによって僕ら日本人とは何者か、ということを考えてみたい。

1.日本語の親戚は?

「日本語の起源」、これはずっと昔から議論されてきた問いであり、いまなお定説のない問いである。(昔は、日本語はウラル・アルタイ語族に属するという説が有力であったが、現在では否定的にみる向きが大勢を占めている。) 比較言語学の立場からすれば、日本語は語族系統不明の「孤独語」である。つまり起源を同じくする、いわば親戚関係にある言語が他に見当たらない、天涯孤独の言語というわけだ。(沖縄語を日本語の方言とみなすか独立した言語とみなすかはデリケートな問題だが、このエッセイではとりあえず沖縄語も日本語に含める。)



比較言語学というのは、「あるいくつかの言語は、むかし共通の言語から枝分かれしてできた」という仮定にもとづき、基礎語彙の音韻対応を調べることで、言語間の親戚関係を調べる学問である。逆に言うと基礎語彙に一定の法則性のある音韻対応が見出せないかぎり、親戚とは認めてもらえない。「boy」と「ぼうや」、「so」と「そう」、「name」と「なまえ」のような、いくつかの偶然の一致をもって「英語と日本語は親戚です」などというトンデモないこと言い出す人がたまに出てくるが、比較言語学はこういうトンデモ説を許さない厳密性(信頼性)がある。

しかし、とりあえず比較言語学とかは忘れて、ごくごく素直に考えて、世界中の言語の中で日本語にいちばんよく似ている言語は何か?と問われれば、それは韓国語(学術的には朝鮮語とよぶべきだが、このエッセイではとりあえず韓国語と呼ぶ。)だと思う。これについて異論のあるかたは少ないと思う。そういえば、韓国語もまた比較言語学では孤独語とされている。1億3千万人が話す日本語と7千万人が話す韓国語。こんな巨大な孤独語がしかも地理的に隣り合って存在している例は他に無い。日本語と韓国語には次回に述べるように大きな類似性がある。比較言語学的な同系関係が認められなくとも、日本語と韓国語はごく親しい間柄だとくらいは言えそうだと思う。
日本語と韓国語の類似性は次の2点に集約されるとおもう。

  1. 文法が酷似している。
  2. 固有の語彙のほかに漢字語が多く用いられる。



次回は、日本語と韓国語の文法が酷似している点について述べる。