「ありのすさび」とハイデガー

日本語には「ありのすさび」という言葉がある。

ありのすさび
あるのに慣れて、いたずらに過ごすこと。生きているのに慣れて、なおざりに暮らしていていくこと
三省堂提供「大辞林 第二版」より

生きていることに慣れすぎて、それをなんとも思わなくなって、あるにまかせて怠惰な生活を送る、というような意味。平安の昔からある言葉で、現代では使われることの少なくなった言葉だが、とても含蓄に富んだ言葉だと思う。

【用例】
「人の命は永遠ではないのだから、ありのすさびに生きてはいけない。」
「いい歳をして、ありのすさびに暮らすのはやめろ。」



「ありのすさび」という言葉は、ハイデガーの哲学に通じるものがあると思う。

人間はいつか必ず死ぬ。人間は「死」というタイムリミットをもった存在である。それなのに世の人は自分の「死」を意識せずに、目先の日常世界の仕事や遊びにばかりかまけている。「死」を忘れることは、本来の「生」を忘れること=「頽落(Verfallen)」である。
「死」を自覚することによって、人間は「頽落」から脱して、本来のあるべき自分を目指して生きるようになる。

というようなことを、(おそらく)ハイデガーは『存在と時間』の中で言っている。ここで「Verfallen」という用語が出てきた。「Verfallen」は日本語訳では「頽落」なんていう小難しい造語で訳されている。しかし「Verfallen」の訳語は「ありのすさび」こそぴったりではないだろうか。



僕ももうすぐ30歳になる。この2年で祖母、伯母、叔母とあいついで親しい親族が死んだ。学生時代の友人もどんどん京都から離れていく。就職して5年、もう新人という扱いではない。いつまでも昔のままではいられなくなる。いいかげん、ありのすさびに暮らしいてはいかんなあと思う。