Love me 天台

昨日の日記に引き続きですが、けっきょく僕って、天台本覚思想を批判しつつ、そこから抜け出せないでいるんですよね。
天台本覚思想は、『大乗涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」という言葉に由来します。文字通りには「人はだれでも仏になれる可能性がある」という意味なのに、飛躍して「人はだれでもありのままに仏である」と説くのが天台本覚思想です。でもそれって、現代の心理学で言えば、はっきり言って幼児性の万能感にすぎないと思うんです。空想的な自信を持って、努力を放棄してしまう思想です。
この問題意識は10年ほど前から持っていました。そのころ僕は道元禅師に傾倒していたのですが、道元禅師もまた、若き日に天台本覚思想に対して下記のような疑問を持たれたようです。

「本来本法性、天然自性身、若し此のごとくなれば、
 則ち三世の諸仏、何によりてか更に発心して菩提を求むるや?」
(もしも全ての者がありのままに仏であるならば、
 何のためにわざわざ努力して悟りを求めるのか?)

天台本覚思想は、全ての人々を救うという大乗仏教の行き着いた先だけれど、それは惰性的な現状肯定、努力の放棄に陥るという欠陥があります。それは、厳しい現実反省と不断の努力を説いた釈尊の教えに反するのではないか? 道元禅師はそこから出発して、あのストイックな禅の世界を開かれました。
僕はそういう世界に憧れます。でも僕はヘタレなので、すぐに自分に負けてしまいます。思い通りにならない現実から逃げてしまいます。甘美な天台本覚思想へ逃げてしまいます。幼児の母子一体感のように、自分が御仏と一つであることを空想し、御仏の慈悲を渇望してしまいます。
ダメダメだなあ〜。