高閑上人を送る序

「執着心の無い人間なんて腑抜けだろ」

これは儒学サイドからよく受ける批判です。仏法者としてずっと気になっている問題です。仏法では、この世の苦しみから脱するためにあらゆる執着を捨てることを説きます。でも儒学サイドからするとそれは人の道に悖ることです。家族を愛し国を愛する心が無ければ人でなしであり、向上心をもって身を立てようとする心が無ければろくでなしだと儒学では考えます。

リア充サイドからも同様の批判を受けることがあります。いわく、「あきらめて開き直る態度は逃げ腰でヘタレだ」と。思うに、リア充サイドや儒学サイドの人たちは、何かを勝ち取るために意欲を燃やすことを尊いことと考えているので、勝ち負けに執着心の無い人間は無気力で怠惰な負け犬に見えるのでしょう。

僕がこの問題をはじめて意識したのは、学生時代に韓愈の「送高閑上人序」という漢文を読んだときでした。この文章は一種の芸術論です。喜怒哀楽や利害得失をごまかさずに心がたかぶってこそ優れた芸術が生み出せるのであって、この世へのこだわりを捨ててしまっては心がしぼんで力を失ってしまうというのが、その主張です。

もっとも、それが一面的な主張にすぎないことは、簡単に反証できます。古来、中国でも日本でも仏僧の書や水墨画に優れたものが多いのは例を挙げるまでもないでしょう。しかし、自分自身の生き方を反省したときに、韓愈の主張にも一面の真理があるのではないかと思えるのです。

この問題へのたしかな答えはまだ見いだせてませんが、一つ思うことがあります。それは、仏法者のやる気無さそうな言いぐさは、あくまで仏法に特有のツンデレ論法だということです。仏法は、「この世のことなどどうでもいい」と言っているのではなく、

「か、かんちがいしないでよね! この世のことなんてどうでもいいんだから!///

と言っているのです。このニュアンスを見落とすと、仏法はただのニヒリズムになってしまいます。そもそも釈尊は、執着を捨てろとは言ってますが、怠らずに励めとも言っています。なまけ怠る者は死人も同然であり、努め励む者こそ不死の境地であると。

最後に、「送高閑上人序」の原文と拙訳を付します。

高閑上人を送る序(原文)

苟(いやし)くも以て其の巧智を寓し、機をして心に応じて気に挫けざらしむべければ、則ち神 完(まった)くして守ること固し。外物 至ると雖(いへど)も、其の心に膠せず。
堯・舜・禹・湯の天下を治むる、養叔の射を治むる、包丁の牛を治むる、師曠の音声を治むる、扁鵲の病を治むる、僚の丸に於ける、秋の奕に於ける、伯倫の酒に於ける、之(これ)を楽しみて終身 厭(いと)わず、奚(なん)ぞ外慕するに暇(いとま)あらん。 夫れ、外慕して業を徒(うつ)すは、皆 其の堂に造(いた)らず、其の胾を食らわざる者なり。
往時、張旭 草書を善くして他伎を治めず。喜怒窘窮、憂悲愉佚、怨恨思慕、酣醉無聊不平、心に動く有れば、必ず草書に於いて之を発す。
物に観ては、山水崖谷、鳥獣虫魚、草木の花実、日月列星、風雨水火、雷霆霹靂、歌舞戦闘、天地事物の変、喜ぶべく愕くべきを見て、一して書に寓す。 故に旭の書、変動 猶(な)ほ鬼神の端倪すべからざるがごとし。此(ここ)を以て、其の身を終ふれども後世に名あり。
今、閑の草書に於けるや、旭の心有るか。其の心を得ずして、其の跡を逐(お)はば、未だ其の能く旭を見ず。
旭と為るに道有り。利害必ず明らかにし、錨銖を遺す無く、情中に炎(も)え、利欲 闘い進み、得る有り、喪う有り、勃然として釈けず。然(しか)して後、一して書に決す。而(しか)して後、旭は畿すべきなり。
今、閑は浮屠氏を師とす。生死を一にし、外膠を解く。是れ、其の心為るや、必ず泊然と起(た)つ所 無からん。其の世に於いてや必ず淡然と嗜(たしな)む所無からん。 泊と淡、相遭(あ)へば、頽堕委靡、潰敗、収拾すべからず。則ち其れ書に於いて之に象(に)て然(しか)る無きを得んや。
然れど吾れ聞く、浮屠の人、幻を善くし、技能 多し。閑 如(も)し其の術に通ずれば、則ち吾れは知る能はず。

現代語訳

もし、すぐれた英知を表現し、精神の機能を心の思うままにできて、気分によって挫けないようにできたならば、精神は完成して、信念を固く持てるようになる。そうなれば外界の物が目に入っても、心にまとわりつかなくなるのである。

堯・舜・夏の禹王・殷の湯王が天下を治める場合、養叔が弓矢を射る場合、包丁が牛をさばく場合、師曠が音楽を演奏する場合、扁鵲が病を治療する場合、熊宜僚が球技をする場合、弈秋が碁を打つ場合、伯倫が酒を飲む場合、それぞれ自分のしていることを楽しんで、一生いやになることはなかった。どうして他のことに心をひかれる余地があったろうか。そもそも、他のことにあれこれ心をひかれて仕事や趣味をふらふら変えるような者は、たいした成果を得ることができない。屋敷の門をくぐっても家の中にまでは入らず、スープを飲んでも具の肉までは食べないようなものである。

昔、張旭は草書を得意として他の技術は習得しなかった。喜びや怒り、困りごと、憂いや悲しみ、楽しいこと、怨みごと、恋しいこと、酒に酔った心地、退屈な気分、不平に思うことなど、心に動くことがあれば、必ず草書に表現した。

物を観察する場合も、山や川、崖や谷、鳥や獣、虫や魚、草木の花実、太陽や月や星々、風や雨、水や火、稲光や雷鳴、歌や踊りや戦闘、天地の事物の変化など、喜ぶべきことや驚くべきことを見ては、その全てを書に表現した。 そのため張旭の書の筆の動きは、霊魂や神々と同様に、予測がつかないのである。このため張旭はその身は死んでも後世に名に名を残すようになったのである。

ひるがえって、高閑の草書に張旭のような心があるだろうか。その心なしに、ただ筆跡だけをなぞっても、張旭の境地には達しえないだろう。

張旭のようになるには方法がある。自分にとっての利害を必ずはっきりさせ、少しも不明な部分を残さず、感情が心の中で燃えさかり、欲望がわいて増進し、得ることにつけ、失うことにつけ、心が高ぶってほぐれることがない、そのような状態となって、その全てを書に結実させる。そのようにしてはじめて張旭の境地は期待できるのである。

ところが高閑は仏陀を師と仰いでいる。生と死を一つと見なし、外界へのこだわりをなくしている。その心はさっぱりしていて昂ぶることがないだろうし、世の中に生きていてもきっとあっさりしていて楽しむことがないだろう。そのように淡泊であったなら、気力がだんだんに衰えていき、くずれてバラバラになり、まとまりがつかなくなるだろう。そうなれば書にもその影響が現れないわけがないのである。

しかし、仏教の信徒は幻術をおこない、さまざまな技能を持っていると聞く。高閑がもしそのような幻術に通じているのであれば私には何ともいえないところだが。



張旭「肚痛帖」
肚痛帖