ドストエフスキーという人は予言者かもしれない。20世紀のロシア革命とその後の歴史を予見していたかのように思える。けれどもキリスト教徒でない僕にはいま一つピンと来ないところがある。
ドストエフスキーって「もしも神様が存在しないのなら善も悪も無いのか?」みたいな話になりがちで、「そうはならんやろ」としか思えない。たぶん多くの日本人にとってそうだと思うのだけども、神様なんか本気で信じてなくても、やって良いことと悪いことの判断はできるし、なんなら道徳と神様は別腹だと思ってるまである。
キリスト教の倫理
ところが、(ガチの) キリスト教徒にとっては、神様こそが道徳の源泉であるらしい。神様が「殺すなかれ」と命じるから殺さない、「盗むなかれ」と命じるから盗まない、死後の裁きがあるから悪行を悔い改め善行を積むらしい。伝統的なキリスト教社会で無神論が蛇蝎のごとく嫌われるのはこのためで、「神様を信じない」= 不道徳 ということらしい。
なぜこのような奇妙な思い込みが生じるのかよく分からない。神の存在を前提とした倫理体系が間違いと言うつもりはないけど、神の存在を前提としない倫理体系だって当然あるのだし、神を信じる必要がないならそのほうが普遍的な体系と言えるんじゃないか? 少なくとも、「ヤハウェ以外に神があってはならない (Ex 20:3)」とか「偶像を作ってはならない (Ex 20:4)」とかは全く普遍性の無いご当地ローカルルールにすぎない。
日本人の倫理
多くの日本人はたぶん神様なんか本気で信じてないけれども、だからといってキリスト教徒と比べて不道徳ってことはなかろう。日本人の道徳は神様を必要としない倫理体系なのだ。そのベースには儒教と仏教がある。(もしかしたら神道の影響もあるかもしれんけどそっちはよく知らない。)
孔子は「神様なんかは敬遠しとけ (敬鬼神而遠之)」と言ってる。儒教では神の存在を否定はしないけど、知性ある立派な人間がむやみに近寄るべきものではないと考える。では儒教の倫理の根本は何かというとそれは「仁」すなわち「おもいやり」であり、善悪の判断基準は「自分がされたくないことを人にするな(己所不欲勿施於人)」だ。
仏教においても、神は超越的な支配者ではない。仏教における神様とは、『ドラゴンボール』におけるナメック星人のような存在で、地球人よりは圧倒的に強いし頭も良いし長生きだし不思議な能力をもってはいるが、けして絶対的な存在ではなく地球人と同じようにいつかは死ぬさだめにある。では仏教の倫理とは何かというとそれは「自分の心を浄める (自浄其意 / sacitta pariyodapanaṃ)」に尽きる。悪いことをせず善いことをして自分の心を浄めれば安らぎが得られる。そこに神様は関係無い。
そういった文化的背景があるので、多くの日本人はべつに無神論者でもないけど、無神論をとりわけ過激な危険思想とも思わない。神を信じなくても道徳が崩壊するわけではないから。だからドストエフスキーのような問題意識は成立しない。神様なんか存在しなくても、人を思いやる気持ちが無くなるわけではないし、善い行いをすれば安らぎが得られ、悪い行いをすれば苦しみが付きまとうことに変わりはない。
ドストエフスキーの予言
ドストエフスキーは無神論者が苦しみもがく末路を描いた。それはたしかに予言だった。不幸なことにその予言は、レーニンやスターリンらの手によって世界規模で成就された。キリスト教徒の皇帝は家族もろとも処刑され、ロシアは無神論者の帝国、ソビエト連邦になった。ソ連がその陰惨な歴史の果てに崩壊するや、かつて処刑された皇帝は聖人に列せられた。かの皇帝ニコライ2世は個人としてはあるいは善良なキリスト教徒であったのかもしれないけど、皇帝としてはとうてい聖人と呼べる名君ではなかったし、べつにキリスト教のために殉教したわけでもないでしょ。
正直に言うと、アホらしい話だと思う。しかし、こういった頑固な油汚れのようなキリスト教の根深い呪縛はドストエフスキーだけのものでもロシアだけのものでもない。
トマス・モア『ユートピア』
トマス・モアの『ユートピア』で描かれる架空の国ユートピアでは信教の自由が保障される。どんな宗教を信じてもよい。ただし、無宗教は蔑まれる。なぜなら死後の裁きを信じない者は平気で悪行に走るからだと言う。神の裁きを恐れず陰で不正をするか、あるいは公然と暴力で法を破るロクデナシだから人間のうちに入らないという。いや、そうはならんやろ、と思う。トマス・モアは人文主義者ではあったが、しょせんは敬虔なキリスト教徒にすぎなかった。
カミュ『異邦人』
カミュの『異邦人』は不条理小説と呼ばれる。しかし不条理なのは主人公のムルソーなのか? ムルソーはなりゆきで人を殺めてしまい、裁判で死刑判決を受ける。それだけの話なのに、裁判官や神父は「神を信じるか」だの「来世についてどう思うか」だの無関係のことをしつこく問う。そっちのほうが不条理だ。そして、こんなふうにキリスト教を拒否し、キリスト教をいささか滑稽に描いたカミュですら、神を信じないムルソーは情緒の壊れた破滅的な人間として描くしかなかったのだ。
『茶漬えんま』と『聖☆おにいさん』の国
日本は幸せな国だと思う。神仏を気軽に笑いのネタにできるのだから。神の存在を相対化するのに決死の覚悟で大上段に構える必要が無い。閻魔大王がお茶漬けを食べてていいのだ。
まとめ
神様とかどうでもいい。