タオと縁起

おとといの日記に対するきぐるみくんのコメント

僕はタオについて仏教で言うところの縁のようなものと考えているみたいです。そういうわけで、どちらかというとタオってのは、過去というよりすぐ近くに常に存在するものではないですかね。それゆえ「道に帰る」というのは過去に向かってというより、現在において「道」(縁)を味わうって感じではないかと思います。だからこそ、未来においても「道」を味わえるよう努力せなあかんな、と思うわけです。その意味で釈尊の言うハードボイルドさと通じるものもあるのではないですかね?

う〜ん、たしかにタオは万物の生成と変化の原理だから、過去の存在ではなく、そういう意味では仏教の「縁起」に近いかもしれません。
ただ、タオイズムの影響を受けた文学、たとえば陶淵明の「帰去来辞」(帰りなんいざ!)や「帰田園居」(拙を守りて田園に帰る)なんかには、望郷、自然回帰、脱世俗、遁世の思想があります。僕の世捨て人的な生き方もそういう文脈の中にあります。

「縁起」は自性の否定(全てのものが独立に存在することの否定)だから、「諸法無我」や「空」につながると思います。自性の否定はいちがいにネガティブな思想ではなく、「自分が何者でもないからこそ、何者にもなりえる」という未来志向の思想でもあると思います。サルトルの「存在と無」に近いかもしれません。人間は「何者であるか」を規定された存在ではなく、「何者になりたいか」を未来に向かって投げかける存在であるとサルトルは言ってる(と僕は解釈してます)。
10年ほど前のアニメソングの一節を思い出しました。(奥井雅美なつかし〜)

子供の頃に想った将来の姿を
一緒に投げかけよう
あの時と同じように見上げた星空へ

こういうアグレッシブな思想を実践できる人には憧れるんですが、自分はヘタレなもんで、ついつい回帰的な甘い思想にひかれてしまうのです。