遠国の雄たち

日独伊の三国は、かつて同盟国として英米仏と戦ったわけですが、この三国が同盟国になったのは偶然ではありません。よく言われるように、日独伊には、列強の競争に出遅れた「持たざる国」という共通点がありました。



では、なぜ日独伊は出遅れたかというと、この三国はともに中世以来、「三百諸侯」と言われるような数多くの小国(日本の場合は大名)に分裂した状態が19世紀半ばまで続き、近代的統一国家の形成が遅れたためです。
薩長主導による明治維新(日本統一への動き)がはじまるのが1868年。プロイセンによるドイツ統一1871年サルディニアによるイタリア統一が1861年。ほぼ同時期ですね。

ところで、ふと気づいたのですが、この三国の統一を主導したのは、いずれも「遠国の雄」ともいうべき諸侯国です。
日本の場合、明治維新を主導したのは、薩摩、長州、土佐、肥前いづれも江戸・上方から遠く離れた西国の外様大名(非主流派諸侯)であり、かつまるまる一国を領有し、石高数十万石クラスの雄藩です。

イタリアの場合は、イタリア王国統一を主導したのはサルディニア王国。イタリア本土から海を隔てた地中海の島国です。サルディニア島は、日本の四国より少し大きく、地中海では二番目に大きい島。イタリア統一後、首都は本土のローマに移りましたが、サルディニア島では今も固有の言語(サルディニア語)が生き残っているとか。

ドイツの場合は、ドイツ帝国統一を主導したのはプロイセン王国。今もドイツの首都であるベルリンに首都を置いていたプロイセン王国を「遠国」というのは違和感があるかもしれませんが、プロイセン王国のもともとの領土はベルリンを中心とするドイツ東北部から現在のポーランド北部とリトアニアにまたがるバルト海沿岸部です。
また中世末期以来ほぼ一貫して、ドイツ諸国の盟主の座には、ウィーンに首都を置くオーストリア大公国が就いていました。プロイセンはドイツの盟主の座を賭けてオーストリア普墺戦争を戦い、これに勝利して、オーストリアを締め出す形でドイツを統一しました。
ちょっと乱暴なアナロジーで言えば、オーストリア=徳川、プロイセン薩長普墺戦争戊辰戦争というかんじ。

なぜこれら「遠国の雄」たちが19世紀後半に相次いで国家統一を主導することになったのか、興味深いところです。