「中国語には主母音が2つしかない」説とそれに対する私見

「中国語には主母音が2つしかない」という面白い説を知ったので簡単にまとめて、それに対する私見を述べる。

前提

ここでいう「中国語」とは現代中国語の標準語である「普通話」を指す。中国語には多くの方言があるが、日本の中国語学習者が学ぶ「中国語」はほとんどの場合この「普通話」である。この記事でも「普通話」を指して「中国語」と呼ぶことにする。

一般的な中国語の教科書では、中国語には6つの単母音があるとされる。すなわち a o e i u ü の6種である。これらが組み合わさって9種の二重母音ができる。すなわち ai, ei, ao, ou と ia, ie, ua, uo, üe である。さらに、3つの単母音が組み合わって4種の三重母音ができる。すなわち iao, iou, uai, uei である。

さらに中国語の母音 (正確に言うと韻母) には、鼻音 (n または ng) で終わるものが16種ある。すなわち、an, en, in, ian, uan, uen, üan, ün および ang, eng, ong, ing, iang, iong, uang, ueng である。この他に特殊な母音の er や軽い発音の e があったり、特定の子音 (s, z, c および sh, zh, ch, r) の後では i が特別な発音になったりするがここでは割愛する。

また、ピンイン(中国語のローマ字表記)では、 i, u, ü から始まる母音は頭に子音が付くときと付かないときでつづりが異なるがそれについてもここでは説明を省く。

まとめると以下のようになる。

  • 単母音は a o e i u ü の6個
  • 二重母音は ai, ei, ao, ou, ia, ie, ua, uo, üe の9個
  • 三重母音は iao, iou, uai, uei の4個
  • n で終わる母音は an, en, in, ian, uan, uen, üan, ün の8個
  • ng で終わる母音は ang, eng, ong, ing, iang, iong, uang, ueng の8個

中国語を学習するうえではこれで良いし、とにかくネイティブの発音を聴いて声に出して練習することが大切だが、理論としてはなんだが釈然としない。これをもう少し整理すると下図のようになる。

…しかしこれでもなんだかスッキリしない。
以上が一般的な中国語の教科書における母音の説明である。

「中国語には主母音が2つしかない」説

これに対し「中国語には主母音が2つしかない」説では、中国語の主母音は a と ə の2つだけだとする。一見すると過激な主張のようにも思えるが、詳しく見ていこう。

まず、中国語の母音(韻母) は、介音 + 主母音 + 尾音 からなると考える。 介音とは主母音の前に置かれる(半)母音であり、尾音とは主母音の後に置かれる(半)母音または鼻音である。介音は (無し, i, u, y) の4通り、主母音は (無し, a, ə) の3通り、尾音は (無し, i, u, n, ŋ) の5個通りである。

主母音と尾音の組み合わせ

まず、主母音と尾音の組み合わせは下図のようになる。[ ]カッコ内は IPA(国際音声記号) による表記である。
(※ 中国語のIPA表記は文献によってばらつきあり。)

なんで a+u が ao なんだよ? とか思うかもしれない。しかし、IPA表記を見てほしい。ao の実際の発音は [ɑʊ] である。ピンインの字面にあまり惑わされないほうが良い。

さて、主母音の /a/ と /ə/ であるが、これは口をハッキリ開くか否かの対立であると筆者は考える。/a/ は日本人にも分かりやすい。おおむね「ア」だと思えば良い。口を大きく開くハッキリした母音である。厳密には尾音によって少し変化するが、ここではふれないことにする。

問題は /ə/ のほうである。こちらはあまり大きく口を開かない微妙な母音であり、実際の発音は様々に変化する。ピンインのつづり上は ou だけが異質なように見えるが、e で表記される発音も決して一様ではない。

  • 単独での発音は [ɤ] になる。「エ」のような口の開きかたで「オ」と言う感じ。
  • 後に /i/ が続くときは [e] となる。i に引きずられて i に近い e に変化する感じ。
  • 後に /u/ が続くときは [o] となる。u に引きずられて u に近い o に変化する感じ。
  • 後に /n/ が続くときは [ə] となる。これは英語にも現れるいわゆる「あいまい母音」である。
  • 後に /ŋ/ が続くときは [ɤ] となる。これは単独での発音と同じである。

ちなみにここで / / と [ ] という2種類の記号を用いているが、/ / は音韻上どのように認識されるか (=音素) を示し、[ ] は物理的にどう発音されるか (=音価) を示す。

介音との組み合わせ

上記の主母音+尾音にさらに介音を組み合わせると以下のようになる。(美しい表だ!)

主母音 /a/ は、介音が加わってもあまり発音が変化しないので分かりやすい。ただし、よく知られているように ian と üan だけは例外で「エ」に近い音になる。i も ü も n も舌が前に寄る音なので、それらに挟まれた /a/ も舌が前に寄って「エ」に近づくのだろう。

対して主母音 /ə/ のほうは、介音が加わると発音が大きく変化する。

  • /i/+/ə/ は [iɛ] になる。i に引きずられて i に近い ɛ に変化する感じ。同様に /y/+/ə/ は [yɛ] になる。
  • /u/+/ə/ は [uo] になる。u に引きずられて u に近い o に変化する感じ。
  • /i/+/əu/ や /u/+/əi/ や /u/+/ən/ では /ə/ が弱くなるかほどんど発音されなくなる。
    ピンインでは、頭に子音が付くときは -iu, -ui, -un とつづる。(子音が付かないときは you, wei, wen)
  • /i/+/ən/ は /ə/ が消えてしまって [in] になる。同様に /y/+/ən/ は [yn] になる。
  • /i/+/əŋ/ も /ə/ が消えてしまって [iŋ] になる。ただし [iəŋ] のように発音されることもある。
  • /u/+/əŋ/ は [uəŋ] になる。介音なしの /əŋ/ は [ɤŋ] であったことに注意。
  • /y/+/əŋ/ は [yʊŋ] になる。 [yŋ] のように発音されることもある。( [iʊŋ] だという説もある。)

このように、介音と尾音に挟まれた場合には /ə/ は消えるかあいまい母音になるのが目立つ。また、/yəŋ/ はピンインのつづりでは iong で、介音は /i/ と見なされることが多いが、この分析では介音は /i/ ではなく /y/ だということになる。

o はどこへ行った?

上記の表にはピンインの o と ong が存在しない。これらはどこに行ったのか?

まず o であるが、これは実際には uo なのである。じつは、ピンインで母音が単母音 o である音節は、bo, po, mo, fo の4つだけであり、逆に buo, puo, muo, fuo というつづりは存在しない。そして bo, po, mo, fo の実際の発音は、o の前にわずかに u を伴う。「ポ」 ではなく「プォ」のような感じ。要するに、ピンインの o は uo の変種ないし表記ゆれと捉えることができる。

次に ong であるが、これは ueng の変種と捉えることができる。というよりも、じつはピンインで母音が ueng である音節は、頭に子音のない ueng (この場合 weng とつづる) のみである。逆に頭に子音のない ong という音節も存在しない。そこで、ueng は頭に子音が付くと母音が圧縮されて ong [ʊŋ] に変化すると解釈することができる。

それがなんの役に立つのか?

なるほどたしかにそういう分析はできるかもしれない。しかしそれが何の役に立つのか? そういう疑問もあろうかと思う。初学者が中国語の母音を学習するうえでは、一般的な教科書の説明で良かろうと思うし、「中国語には主母音が2つしかない」などという主張はいたずらに混乱を招くだけかもしれない。あるいは、これは純粋に言語学 (の一分野である音韻学) の理論であって、実際的な中国語学習に役立つものではないし役立つ必要もないと言う人もいるかもしれない。

しかし筆者は、この理論は実際の中国語学習にも役立つと感じている。というのも、すでに見てきたように、ピンインの母音表記は実際の発音に必ずしも即していない点が多々あって、そのことが見落とされがちだと思うからだ。ピンインが悪いと言っているのではない。どんな言語でも、完璧に合理的な文字表記などというものは存在しない。問題は、日本人の悪い癖として、ローマ字表記を過信してしかもそれをカタカナ読みしがちだということだ。

これは筆者自身の経験であるが、リスニングで ao と ou が区別できず、なんでだろうと思ったことがあった。なぜ アオ と オウ が区別できないのか? しかしこれは心得違いである。ao と ou は アオ と オウ ではなく、ɑʊ と oʊ なのだ。こういう日本人にとって難しい母音の区別を学ぶ上で、「口をハッキリ開くか否か」という観点で捉えることは有効だと筆者は感じる。

むすび

中国は漢詩を生んだ国である。それゆえ古来より中国人は中国語の音韻体系を研究してきた。そして子音に関しては千年以上も昔にかなり的確な分析がなされている。一方で、母音の分析はいまひとつ整然としなかった。中国語の母音は前後の子音や母音に影響されて変化しがちなので、中国人自身にとっても捉えるのが難しかったのではないか。
それに比べて日本語の母音は単純で、前後の音によって変化することが少ない。江戸時代の本居宣長は、日本語の発音こそ純粋で正しい音であり、中国語の発音は不純で正しくない音だと考えた。もちろん今日の我々がそのような立場に立つことはありえない。しかし、日本語と中国語とでは母音の性質が異なるということは、中国語を学ぶうえで押さえておくべきポイントだと思われる。