「きーひん」「けーへん」「こーへん」

カ行変格活用動詞「くる」の否定は、標準語では「こない」「こず」が文法的に使い分けられるが、関西方言では「きーひん」「けーへん」「こーへん」が混在し、地域差・世代差があって一定しない。これはどういうことだろうか? 関西方言では否定の助動詞は「へん」ないし「ひん」であり、概ね以下のように動詞に接続する。

活用の種類 動詞 関西方言での否定 標準語での否定
五段活用 あるく あるかへん あるかない/あるかず
上一段活用 おちる おちひん
おちへん
おちない/おちず
みる みーひん
みーへん
みない/みず
下一段活用 たべる たべへん たべない/たべず
でる でーへん でない/でず
サ行変格活用 する しーひん
せーへん
しない/せず
カ行変格活用 くる きーひん
けーへん
こーへん
こない/こず



ここからいくつかのことが分かる。まず、助動詞との接続形が単音節になる場合、母音が長母音化するということが指摘できる。関西方言には単音節の語を長母音ぎみに発音するという特徴がある。たとえば、蚊→かー、木→きー、酢→すー、血→ちー、戸→とー などが挙げられる。ここで見られる現象もその一種かもしれない。


次に、否定の助動詞は、イ段以外と接続する場合は必ず「へん」であり、イ段と接続する場合は「ひん」になることが多いということが指摘できる。


ところで、関西方言に限らず日本語には同じ母音の連続を好むという傾向がある。「頭(あたま)」「体(からだ)」「耳(みみ)」「鼻(はな)」「山(やま)」「河(かわ)」「母(はは)」「父(ちち)」など、基礎語彙において顕著に見られる傾向であり、一種の母音調和的な現象ではないかと思われる。要するに同じ母音が連続するほうが発音しやすいためにおこる現象である。


「イ」は、日本語の母音の中では調音位置がいちばん端に位置し、最も鋭く、最も緊張した音である。そのため、イ段と接続するときのみ、否定の助動詞「へん」が「ひん」に変化するのではないだろうか。


次に、カ行変格活用を除く動詞、つまり五段活用・上一段活用・下一段活用・サ行変格活用においては、否定の助動詞への接続は、関西方言においても標準語と同じ語形の未然形が選ばれるということが指摘できる。サ行変格活用に関しては、未然形に「し」と「せ」があり、標準語では「しない」「せず」と使い分けられるが、関西方言では「しーひん」と「せーへん」が混在する。ここでも先に述べたようにイ段の「し」に接続する場合には「へん」が「ひん」に変化している。


さて、カ行変格活用の場合であるが、標準語においては「くる」の未然形は「こ」のみである。しかるに関西方言では「き」「け」「こ」の3通りの語形が混在している。中でも「け」という語形は、標準語のカ行変格活用には存在しない語形である。しかし関西方言においては、標準語文法的に妥当な「こーへん」よりもむしろ「きーひん」や「けーへん」のほうが多数派のように思う。(「こーへん」は標準語の影響を受けて近年になって広まった形だとも言われる。)


「きーひん」「けーへん」という形が生まれたのは、上一段活用・下一段活用・サ行変格活用の語形からの類推からだろうか。逆にそもそもオ段の未然形というのはカ行変格活用「くる」でしか見られないものであり、イ段ないしエ段のほうが、同じ母音を持つ「ひん」や「へん」への接続が発音しやすいからだろうか。